2017年5月13日土曜日

戦国ixa(63鯖):ハズレくじを引く! ~キャラ絵小話・柳生石舟斎さん編~

ixaコラム:経験0からのIXA!





関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/05/ixa_8.html









☝・・・いや~! ><


突然ですが自分、63鯖でそれなりに活動してきましたが、その報酬である「天戦チケ」は、わたしにとってはちえ専用チケット。 ゲームスタートして以来、4枚引いて、そのすべてがちえなんですから・・・ホントにもう、凹みます。 orz









☝・・・関連で、はずれくじといって、「ちえ」以外に思い出すのが、「Yさん」や「ナマコおじさん」ですよねw


幸いなことに、わたしは「天上チケ」から彼らが出たことはありませんが・・・ゲームで頑張ったご褒美のチケットを手に入れ、「何が出るかな♪」といったワクワクとした気持ちの所から一転、ハズレくじだったときのガッカリ感の、その落差といったら・・・。


「引退勧告か~!」


などと、愚痴や恨み言の一つや二つ、ポロリと出てしまったとしても、そこは人間だもの、仕方ないですよね。
(´・ω・`)









☝・・・ですが、この文章を書いている2017年5月時点では、Yさんやナマコおじさんなどといった、明らかにハズレのカードは「戦チケ」「天上チケ」「天下チケ」といった、各種配布チケットをはじめとして、排出停止になっていたのデスね!?
Σ(`・ω・´)


い、いつの間に仕様変更になっていたんだ・・・ 比較的最近まで排出されていたように思っていたんですけれどね!w


そういえば最近、カード取引所において、Yさんの出品が15万銅銭や20万銅銭で入札されていて奇異に思っていたのだけれど、こういった事情があったのですね。なるほどなるほど!







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


・・・今回は「Yさん」こと、柳生石舟斎さんについての話題に特化してみますかぁ!







まずは、Yさんの性能についてですが、


(例として、先日の合戦のレポートを!)




☝・・・ハズレくじの代表のように言われているYさんですが、わたしのような一般人クラスにとってみれば、防衛した時のレポートで活躍武将の上位、それも筆頭にしばしば表示されているように思うのは、気のせいでしょうか?









☝・・・Yさんの固有スキル・「柳生新陰流」も、スキルレベルを10まで上げれば、将防が55~40と、けっこう・・・いや、かなり良さそうな内容となっています。



わたしはスキルの期待値を、「発動確率×アップ数」で評価しているのですが、そうすると、


55 × 40 = 2200


・・・2200ポイントと、これはレアリティ・極のなかでも優秀な部類に入ります。


ですから、『ixa』において一般人クラスであるなら、1枚くらいはYさんを育成していても損はないのでは? と、思っていマスw







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


つづいて、




☝・・・つづいて、改めて眺めてみる、Yさんのキャラ絵。 ネタキャラとゆう先入観を捨ててじっくりと見てみると、なかなか渋くていい一枚じゃありません?w


・・・絵師の方は能條純一さんと、『哭きの竜』、『月下の棋士』で知られた著名な漫画家さんだ。










☝・・・マンガ『月下の棋士』より。 Yさんの衣装の配色を、『月下の棋士』の主人公とかぶせて仕上げたのは、漫画家・能條さんの茶目っ気といったところでしょう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


ではここからは、Yさんの伝記的なものを語っていこうかな。







☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・Yさんこと柳生宗厳(むねよし)は、「柳生」とゆう苗字が示す通り、大和の国・柳生の小領主の家の子として生まれた。 大永7年(1527年)の生まれとあるので、信長よりもやや年上といったところだ。











☝・・・グーグルマップより。


ここで宗厳さんの生まれた柳生の地をざっくりとご紹介しよう。 ご覧のとおり、柳生は奈良盆地から遠く離れた東の山奥にある、小さな里である。 そんな柳生の里は奈良・春日大社の神領(領地)として開発・発展していたが、のちに春日大社が奈良・興福寺と一体化したため、柳生の里は興福寺の領地となった。


そして、柳生家の先祖は管理者として派遣され、その土地に根付いていったようだ。 やがて柳生家は武家(土豪)として台頭することになるが、それは宗厳の父・家厳の代からであり、柳生家は戦国時代において比較的新興の土豪であった。









☝・・・サイト・『奈良興福寺』より。 興福寺は乾漆阿修羅像などをはじめとした、第一級の仏教文化財で知られた寺院である。


脱線ですが、大和の国・奈良県の中世の歴史は他所の地域とは大きく異なっている。 と、ゆうのは、興福寺を筆頭とした寺社の勢力が非常に強く、幕府といった武家権力が歴史的に介入できなかった/介入しずらかった地域であったからだ。


事実、鎌倉・室町時代ともに、幕府は大和の国に守護を任命できなかったほどに寺社の勢力は強く、大和の寺社は時に一致結託して他国からの武家の侵入に抵抗するなど、事実上の「寺社王国」であったという。


平成の今日でも、奈良県といえばお寺、といったイメージがあるけれども、それは中世以来の伝統だったのですね。









☝・・・『信長の野望』シリーズより。 このゲームにおいて、大和の国は「筒井家」が登場しているのでわたしも誤解していましたが、大和の国の事実上の守護は興福寺であり、土豪や地侍の衆を取り込んで、広くゆるい支配体制を確立していたのですね。


なお、筒井家は興福寺の「衆徒」と呼ばれる僧兵団の一つであり、大和の国の興福寺支配体制における、有力な武家(土豪)であったとゆうことだ。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国大戦』シリーズより


☝・・・さて、大和の国のご当地事情はさておき、柳生宗厳はどのような生き方をし、「柳生新陰流」を開くに至ったのだろうか?


領主(土豪)の嫡男であったのだから、普段はその地に居ついて農耕をし、有事の際は侍となって戦うのが一般的である。 立身出世が夢ならば、有力な大名に幼少の頃から仕官するとゆう選択肢もあったが、彼は剣の道を志した。










☝・・・ところで、宗厳の若き日の頃で、最も高名な剣士は、鹿島新当流の塚原卜伝であった。 卜伝は武者修行と称し、京の都をはじめ、諸国を回遊していた。


卜伝の、「その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであった」とゆう派手な行動や、あらゆる真剣勝負で全戦全勝という、いわば伝説のような名声は畿内を中心とした諸国に広まっており、それは柳生の里にも伝わっていただろう。 野球少年がプロ野球選手に憧れるように、剣を志す宗厳もまた、卜伝に憧れを抱いていたはずだ。









☝・・・宗厳は塚原卜伝の下で修行をしたかったかもしれない。 しかし卜伝は将軍・足利義輝や伊勢の国司・北畠具教といった身分の高い者を主な対象にして剣の指南をしており、高い身分(もしくは十分な謝礼金を払える身分)やツテが無かった宗厳は直接指導を受けるといったことはできなかったのだろう。


結局、宗厳は剣術を「はじめ戸田流の戸田一刀斎、次いで新当流の神取新十郎に剣を学んだ」と、伝承ではそうなっている。 おそらく武者修行の旅に出て、それらの門を叩き教えを乞うたはずだ。


ちなみに戸田一刀斎とは、別号を鐘捲自斎(かねまきじさい)で知られた剣豪である。宗厳は北陸で修行したのだろうか。 また、新当流の神取新十郎とゆう師匠も気になる。新当流とゆうことなので、もしかしたらその師匠は塚原卜伝の門下生なのかもしれない。しかし、神取とゆう苗字なので香取神道流の方なのか? ・・・そのあたりは伝承が混乱している恐れが多分にある。


なお、一部の剣豪の活躍を主題にした小説では、あるいは宗厳は卜伝に師事したとするものもあるが、それらは創作の類だろう。 もし卜伝流を正式に受け継いでいたのであったなら、自らの流派に「新当流」を付けて名乗ったはずだからだ。







☆『戦国サーガ』より








宗厳の剣の基礎修行の期間はよくわかっていない。 けれど、永禄2年(1559年)、32歳の時に父とともに大和国内の合戦に参加したことが記録に残っているので、この頃までには里に帰り、家督を継いでいたものと思われる。





☝・・・奈良・興福寺とゆう大きな傘下のもとで繰り広げられる、どんぐりの背比べのような争いを、宗厳は父・家厳に従って転戦していく。


柳生家ははじめ筒井家に味方をしていたようだが、やがてそれを見限り、松永弾正久秀の味方をするようになる。 松永弾正に味方をすることで、織田信長との繋がりを作ることもできた。









☝・・・大和の国でのローカルな争いがつづくそんなさなか、柳生宗厳に一大イベントが訪れた。 それが、剣聖・上泉信綱との邂逅である。


場をセッティングしたのが、先ほど名前が挙がった伊勢の国司・北畠具教で、槍の達人として知られる宝蔵院胤栄とともに3者は紹介され、奈良(おそらく興福寺)で会ったのだった。 北畠具教は自らが剣術家であると同時に、剣術に理解があるパトロンとして、多くの剣術家たちと交流し、関わりを持っていたという。 ・・・これはまさに、「蛇の道は蛇」の言葉のとおりであるね。



伝承ではこのとき、「柳生宗厳は上泉信綱との立ち合いを所望したが、その弟子である疋田とゆう剣士に勝てなかったので、即座に弟子入りを決意した」という。 また、宗厳はやがて宝蔵院胤栄から槍術を学んだ、とも伝わっているので、この3者の邂逅はとても興味深い出来事であるね。







☆『もののふ~白百合戦舞姫~』より







さて、上泉信綱の弟子となった柳生宗厳は、どのような稽古をして新陰流を学んだのだろうか?


当然といえば当然であるけれど、信綱の下で宗厳がどのような稽古をしたのかはよくわかっていない。 宗厳が信綱の弟子となった時には、すでに剣士として一応の完成はしていたはずなので、そこからどう新しい伸びしろを見出し、柳生新陰流の剣豪として完成していったのかは大いに興味があったところだ。


ともかく、一説では「上泉信綱は柳生の里に3年滞在し、そして疋田文五郎(一番弟子)を柳生に留め、自らは諸国遍歴の旅をつづけた。云々・・・」といい、宗厳は柳生の里で新陰流の稽古をしたらしいことが伝わっている。


努力のたまものなのか、それとも天才だったのか。 宗厳は上泉信綱の新陰流を2年目にして「免許皆伝」、さらにもう6年後には「一国一人の印可」を受けた。 要するに新陰流においては卒業である。 と、このようにして宗厳は新陰流を体得したのだった。







☆『戦国アスカ 零』より







しかしここで、柳生宗厳の新陰流体得のエピソードに水を差さなければいけない。 宗厳と上泉信綱、そして宝蔵院胤栄の3者が奈良で会ったとゆう出来事は、永禄6年(1563年)のこととされている。 ここに疑問符がつくのだ。




☝・・・『信長の野望』シリーズより、武田信玄(左)と長野業正(右)。


突然ですが、長野業正は「業正が上州にいるかぎり西上野に手出しはできぬ、と信玄を嘆かせた智将」と評され、また「上州の黄斑」とも恐れられた猛将で、剣聖・上泉信綱はその配下だった。


そして、上泉信綱は長野家の本拠地・箕輪城が武田に落とされるまで最後まで戦い、やがて敗れて捕らえられるものの、信玄に許されて諸国へ剣の修行に行くとゆうエピソードが『甲陽軍鑑』に記されていて、その話は有名である。 問題は、箕輪城が落ちた年月が、確実な資料によれば1566年の9月とゆうことだ。


つまり、箕輪城が落ちる3年前の1563年に、上泉信綱が上州から遠く離れ、伊勢や大和の国へ弟子ともども旅に出て、そのうえ柳生宗厳と師弟関係を結ぶとゆうことは普通では考えにくい。 そもそも、剣聖・上泉信綱と長野業正に仕えた上泉信綱が同一人物であったのか、それすらも定かではないのだ。







☆『戦国炎舞~KIZUNA~』より



英雄だとか、強い男といったものへの憧れは当然昔からあり、人々はそういった憧れを本を読むことで満たすこともある。 そういったことで、剣豪を題材にした読み物は講談本として江戸時代の初期にはすでにあったらしく、その内容は面白おかしく誇張され、創作や脚色、あるいは誤記に満ちている。


混乱の原因となっているのは何も講談本ばかりではない。真偽の定かではない、上泉信綱の印可状(免許皆伝の証書)があちこちに存在し、しかもそれらは大切な文書として各大名や旗本に伝わっていたりする。 当然柳生家にもその文書はあるようなのだが、どうも怪しい・・・。


要するに、伝承をはじめ多くのものごとが虚実ないまぜの状態になってしまっているのだ。 柳生宗厳や上泉信綱をはじめ、剣豪に関する伝承はほとんど信用できない、といった主張をする専門家もいるくらいだ。


とはいえ、柳生家がやがてその剣の流派を「柳生新陰流」と呼ばれたのは事実なので、いずれかの時点で上泉信綱本人と直接関わりをもち、新陰流・免許皆伝の印可を受けたものと思いたいデスね!







☆『戦国やらいでか』より







柳生宗厳の、剣術に関する伝承はほとんど信用できない。 そんなショッキングな説もあるのだな、と驚いた自分ですが、宗厳の年表で一つの違和感を感じる出来事を見つけました。


それが、永禄11年(1568年)の10月、「柳生宗厳が、奈良から柳生へ帰郷する際に落馬をし、重体となった」とゆう出来事だ。 


剣豪といえば、身体能力は常人を凌駕して有り余るものがあるだろう。 それなのに、戦場でもない場所で落馬して重体となるとは、なんとも不注意で不名誉なことだ。 騎馬適正がEだったのか、もしくは何かイレギュラーなことがその前後にあったのか。 ・・・ともかく、宗厳はこの事故のあとは、目立った活動をぱたとやめてしまう。


この落馬事故後の、1568年以降の宗厳の空白期間がミソで、この期間は剣聖・上泉信綱の晩年に遍歴していた期間とも合致する。 つまり、両者がこの期間に会って新陰流を伝授した/されたとしても不都合はないのだ。


ここでは、仮説として、落馬事故後に宗厳が新陰流を学んだものとして、話を進めたい。







折しも、「落馬事故」のその数年後、嫡男の厳勝(よしかつ)が合戦で敵の銃撃にあい、重症を負って再起不能になってしまうなど、柳生家にとって不幸な出来事が続いた。 それなので、「単に剣技に秀でていても・・・」と、柳生宗厳は虚しさを覚えたことだろう。


そんな出来事に加え、40代の宗厳であったのだから、新陰流を学んだとしても、それは実技的なこととゆうよりは、技術論だとか精神論などといった、論理を中心に学んだのかもしれない。


「剣禅一如」などと、剣の道を究めんとすれば、それは精神的な領域にまで踏み込むことになるみたいで、その奥義は深淵である。 かくして、宗厳は新陰流の神髄を学びつつ、独自の理論や工夫も盛り込み、それはやがて「活人剣」といった独自の概念を持つ流派として育っていったのではないだろうか。







☆『戦国大戦』より


☝・・・柳生宗厳は、中年~晩年に差し掛かったあたりから「石舟斎」の号を使用しはじめた模様だ。


柳生石舟斎宗厳といえば、いかにも老剣士といったイメージがメジャーであり、晩年の姿で描かれることが多い。 それとゆうのも、日本でもっとも有名な剣豪小説・『宮本武蔵』にて、老剣士としてその姿を描かれているからだ。


さて、「落馬事故」からずいぶんと時がたち、柳生家が再び歴史の文献に登場するのは豊臣政権の時代である。 その内容も、柳生家が太閤検地の際に「隠田」・・・つまりは不正があったとして領地を没収されたという、かなり残念な内容だ。


もっとも、豊臣政権は大阪を中心とした畿内を身内で固めるために、昔から居ついていた土豪などを一掃する意図があったみたいなので、柳生家からすれば無実の罪を着せられたようなものだったろう。 かくして柳生家はいっとき浪人の身分となる。







☆『戦国姫譚MURAMASA』より







浪人となり辛酸をなめた柳生家であったが、やがて転機が訪れる。 徳川家康が天下を狙うにあたって、畿内で味方づくりを秘かに始めたのだ。 その相手として、豊臣政権に冷遇された柳生家も打診・接触を受けた。


剣豪の伝説はほとんど信用できない・・・そうではあるけれども、柳生石舟斎が徳川家康に仕えるようになるエピソードはとても興味深い。 それが以下である。







文禄3年(1594年)のとき、石舟斎はのちに天下人となる家康の目の前で、なんと「無刀取り」・・・つまりは「真剣白刃取り」であるが、その実演をしてみせたのだった。もちろん、ヤラセと疑われないためにも、刀を振るったのは家康の側近だったろう。


・・・いったい、武士の抜き放った一閃をどのようにすれば素手で受け止められるのだろうか? わたしには皆目見当がつかないけれど、とにかく石舟斎は見事「無刀取り」を成功させ、目の前にいた家康を感動させる。


そして家康からすぐさま兵法指南役を命ぜられ、柳生家は次の天下人・徳川家への仕官を許された。 実際に仕官することになったのは石舟斎ではなく、その5男・宗矩だ。 宗矩は智謀に優れ、やがて幕府組織で出世することとなる。









この出来事は柳生家末代までの誉れだったのだろう。 このエピソードは石舟斎を代表するものとして全国的に流布され、以来、「無刀取り」、あるいは「真剣白刃取り」は剣豪の持つスペシャルなスキルとして、現代を生きる私たちも何となくその技を知っているほどだ。


・・・しっかし、これって本当の出来事だったのかなぁ?@@; 全面的には信じられませんが、徳川が柳生の剣の腕を買って仕官が許されたことは事実だと思うので、一定の事実を反映しているのでしょうね。 









☝・・・家康に「無刀取り」を披露した後の、晩年の柳生石舟斎の消息はあまりよく知られていない。 柳生家は関ケ原の合戦(対上杉戦)で、家康に従って関東まで出陣したとゆう記録があるみたいだが、そこに石舟斎が加わっていたかどうかは定かではない。


関ケ原の合戦の6年後、慶長11年(1606年)に亡くなった。享年80。 のちに1万石の大名となった息子の宗矩は寺を建立し、有名な沢庵和尚を開基として父・石舟斎の菩提を厚く弔ったという。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


と!ゆうことで、今回はこのあたりでお開き。


『ixa』ではネタキャラ扱いをされているYさんこと、柳生石舟斎さんですが、なかなか興味深い伝記の持ち主でしたね。


改めて、Yさんをスキルレベルを10にして使っていこうと思ったよ!
(^ω^)ノシ!


(つづく)


※この文章はブログ主個人の見解です。







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