2017年6月2日金曜日

【戦国ixa】キャラ絵小話! ヴィレラさん編(63+64鯖)


ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/05/ixa_13.html
(キャラ絵小話・柳生石舟斎さん編)







(イメージ)


☝・・・東西戦で大活躍し、みんなから羨望のまなざしで見られる、銅銭スキルを持つカードのヴィレラさん。 先日、東西戦があったとゆうことで、今回はヴィレラさんについて小話をしていこうかな。







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☝・・・さて、ヴィレラさんことガスパル=ヴィレラは、戦国時代に日本を訪れた南蛮人の宣教師です。 しかし、そういった宣教師といえばフランシスコ=ザビエルが圧倒的に有名で、それ以外にはフロイス、オルガンティーノ、ヴァリニャーニといった人物名が続いて思い出されます。 そんななか、こんにち日本で知られている宣教師のなかでは、ヴィレラはどちらかというと無名な部類に入るのではないでしょうか・・・?









☝・・・イケメン白人として描かれている、ヴィレラさんのキャラ絵。 絵師はBISAIさんで、『戦国ixa』をはじめとしてたくさんのキャラ絵を手掛けている絵師さんだ。







そんなヴィレラは、1525年生まれのポルトガル人である。 彼は幼い頃から聖職者となるための教育を受けていたようで、その宗派はキリスト教のカトリックだと伝わってる。 西暦1553年、彼が28歳の時に司祭として「イエズス会」に入会したという。







のっけから脱線ですが、ここでまず「イエズス会」について少し触れておかねばならない。 イエズス会とは、「清貧と貞潔」、「エルサレムへの巡礼」、「教皇の命に忠実に従う」 この3点を綱領とした、ローマ・カトリックにおける一組織だ。 かなり独自の行動をとっている団体でもあるので、事実上の一宗派といっていいかもしれない。


年代について記すと、イエズス会は1534年にロヨラという修道士が発起人となり結成され、1540年に教皇から正式に認定されたことをもって成立した。


☆『ウィキペディア』より、ロヨラ肖像







イエズス会が立ち上がったのは、ルターによる宗教改革がきっかけだと言われている。 いわゆる、「カトリック VS プロテスタント」の構図だ。 先に触れたイエズス会の綱領の中に「清貧と貞潔」が入っているのは、当時のカトリックの宗教者が堕落しているとゆう批判への、深刻な反省を込めて入れられたのだろう。






ロヨラやザビエルを中心としたイエズス会の会員(宗教家)たちは、ローマ・カトリック内部の刷新・浄化を図りながら、プロテスタントの勢力が増大することへの防衛に努めていく。 そして、その活動のなかで特筆されるのが、「アジアといった、ヨーロッパから遠く離れた地域での布教活動」である。


「大航海時代」。 ・・・そう、当時のヨーロッパはルネサンスとそれに続く大航海時代を迎えており、未知の世界への冒険・探検の気運が高まっていた。 その当時の気風をイエズス会は組織に取り込んだのだ。


「新世界の異教徒を教化するのがイエズス会修道士のつとめであり、それは神の御心にも叶う」。 ・・・かくして、野望にも似た理想を共有したイエズス会の修道士たちは、イベリア半島を発ってアジアへと向かったのだった。







☆『戦国サーガ』より、姫化したヴィレラ







しかしいったい、彼ら修道士たちはどうしてそのような使命感を持ったのだろうか?


自らの名声のため、教皇の命のため、あるいは信仰してやまない自身の宗派のためだったのか? またも脱線ですが、わたしはここで以下の一節をふと思い出しました。







羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」
(読み:ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてい、はらさんぎゃーてい、ぼじそわか)


・・・この一節はキリスト教とは無関係の、仏教の『般若心経』の締めの一節です。 意味は、「いざ往かん、いざ往かん。かの岸へ、幸いなるかな」 ・・・意味は概ねこのようなものであったように思います。(なお、この一節は「真言」であり、むやみに訳す必要はないとされている。)


わたしは決して怪しい宗教の信者ではないけれども、最もポピュラーなお経である般若心経に触れたことがあり、そのリズムのなかに不思議な高揚感を感じたことがある。 


ヴィレラをはじめ、イエズス会の宣教師たちが遥か故郷を離れ、迫害だとか命の危険を顧みずに苦難な布教に赴いたのも、「いざ往かん、いざ往かん!」のフレーズにも似た、高揚感だとか法悦といったものを含んだ、熱い信仰心のなせるわざだったのかもしれない。 このこと以外に、彼ら宣教師たちの、危険な異教の地での活動の動機が説明ができるだろうか?







(参考)


☝・・・大航海時代の代表的な航路。 青線がいわゆる「東回り航路」、そして白線が「西回り航路」だ。 堅牢な「ナウ船」(ガリオン船の原型)の発明と「羅針盤」の伝来・普及、「帆船の帆」の改良などといった、要するに航海技術の向上が契機となり、それまでは不可能だった外洋への長期航行ができるようになってヨーロッパの大航海時代は幕を開けた。 そしてその旗手となったのがヴィレラの母国・ポルトガル王国である。


ヴィレラが辿った航路は正確には分かりませんが、東回りの船に乗ったことは確かなようだ。 アフリカの喜望峰を回り、インドのゴアに寄港し、マラッカ海峡を通過、中国のマカオ、そしてついに極東の日本へとたどり着いたはずだ。 かなりの長旅ですよね。







☆『千万の覇者』より、大友宗麟


☝・・・こうして弘治2年(1556年)、ヴィレラは豊後の国・府内に上陸した。 これは、ザビエルが初めて日本の地を踏んでから7年後のことだった。


豊後の国はキリシタン大名の「ドゴーンさん」こと、大友義鎮(のちに改名して宗麟。以下、便宜上宗麟と記します)の治めた地である。 宗麟はキリスト教のよき理解者として、以後、様々な形でヴィレラをはじめ、宣教師たちへの援助を惜しまなかった。







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☆『戦国サーガ』より、姫化したコスメ・デ・トーレス


☝・・・さて、そんな豊後の地に到着したヴィレラは、上司にあたるコスメ・デ・トーレスの指揮の下、九州をはじめ日本の各地で布教活動を行うこととなる。


ちなみにトーレスとは、ザビエルと共に日本を訪れた宣教師であり、ザビエルが日本を去ったあとその役職を引き継ぎ、イエズス会の日本布教長を務めた重鎮といえる人物だ。 なお、この人物の性格は温和で、愛情にあふれる極めて人格者であったと伝わっている。


そして、そのトーレスをアルメイダが右腕となって補佐をしていた。







☆『信長の野望』シリーズより、ルイス・デ・アルメイダ


☝・・・ヴィレラの先輩で同僚にあたる、ルイス・デ・アルメイダ。 彼はこのキャラ絵のように、元は冒険商人として金儲けのための日々を過ごしていたが、いつしか彼は、荒っぽい冒険商人稼業に嫌気がさしていた。 冒険商人とは、海賊や詐欺師と紙一重の存在であったのだ。 そんな折りに、彼は人格者である宣教師・トーレスと出会い、イエズス会の活動に傾倒していく。



アルメイダはもともと一般人であり、宗教家ではなかったものの、めきめきとその才能を発揮していく。 まず、彼は医術の心得があったので医療行為を行うことができた。 彼の医療行為は布教活動の一環として役に立ったのだ。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化したアルメイダ


☝・・・ただし、アルメイダは「ドクター」というよりも、どちらかといえば「ヒーラー」であったようだ。 エピソードの中には、「キツネ憑きの悪魔祓い」といった宗教的・呪術行為まで彼は行っている。


そして、元商人というだけあって、大金の所持金を教会に寄付し、それを原資に貿易の投資を行い、そこからの配当でイエズス会の活動資金を賄っている。


また、先ほどの資金をもとに、捨て子の風習のあった当時の日本で孤児院を建てたり、らい病患者のための施設も建設するなどの慈善活動も行っている。


アルメイダが主に活動したのは九州の地でしたが、彼は「生ける車輪」とのちにあだ名されるほど大車輪の活躍で、日本布教長・トーレスに並ぶ名宣教師なのだった。










☝・・・脱線が過ぎましたが、このように偉大な先輩・上司が日本で布教活動に奮闘しているなか、さらにそこへやって来たヴィレラは即戦力・期待の新人だったと言えるだろう。


と、ゆうことで、ヴィレラはさっそく前任者との交代のため平戸島へと派遣された。







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☆『グーグルマップ』より


☝・・・平戸で布教活動を行い、1500人ほどの民衆に洗礼を授け、まずまずの成功を修めたヴィレラでしたが、彼はやがて府内に戻ることになる。


ある資料によれば、平戸において仏教徒である領主と、キリシタンである領民との関係が悪化したのがその原因だといわれている。 また、さらに別の資料によれば、日本に赴任したばかりのヴィレラはテンションが高まっていたのか、うっかり信者に過激な指示を出し「仏像や仏典などを焼かせた」ことによって、仏教徒とキリシタンとの争いが始まってしまったと述べられている。 @@;


ちなみに、その地の領主とは、「水軍の松浦党」とその名を知られた松浦隆信である。









☝・・・松浦隆信は、中国人倭寇である王直を平戸の領内に住まわせたり、自らはキリスト教にまったく関心がないにもかかわらず、ポルトガル商人との貿易のために宣教師を保護するなど、貿易(非合法の略奪を含むw)といった経済活動で生まれる利益をもっぱら重視した領主だった。


そんな隆信だったが、領民の中の仏教徒とキリシタンとの対立が深刻化していく現状を憂慮して、やむなくヴィレラを追放したのだった。 永禄元年(1558年)のこととだったといわれている。 しかし、ヴィレラを追放するだけでは対立が収まるはずもなく、これを端緒として平戸ではキリスト教会の焼き討ち事件が起きるなど、その領内ではトラブルが続出、治安は大いに乱れた。







☆『戦国ixa』より、松浦隆信


☝・・・そのとき松浦隆信はあからさまに「日本人びいき、もしくは仏教徒びいき」の裁判・政治を行ったようだ。 さらに隆信は、泉州堺の商人くずれを手引きして、ポルトガル商船を襲わせるなど、表裏比興の腹黒さをさく裂させる。 w


隆信のその一連の行いに不信感と怒りを覚えた日本布教長のトーレスは、対抗措置として平戸から一切の貿易の権益を引き上げさせ、こうして松浦氏の平戸は南蛮貿易港としては「終了!」となってしまった。 (ただし、しばらくの後に平戸は立地などの諸条件により、南蛮港として再び使用されることとなる。)







☆『グーグルマップ』より


☝・・・なお、平戸が干されて、その後釜となった南蛮港は大村氏の領した横瀬浦だったという。 そんな横瀬浦も松浦氏の逆恨みによる攻撃によって間もなく壊滅、さらに南蛮港は大友氏領の肥後高瀬などに移り、やがて大村氏領の福田浦、そして長崎に落ち着くこととなるが、これはけっこう先のお話・・・。







またも脱線ですが、


☆『グーグルアース』より


☝・・・脱線ですが、それにしても、なぜ南蛮港は九州北西部という位置にこだわったのだろうか? 良港というならば日本各地にいくらでもあるし、また、貿易の利のために南蛮人商人・宣教師を保護してくれる領主も他に探せばたくさんいたハズだ。


・・・その答えとしては、さきほど少し触れたように、平戸や長崎といった九州北部の地は日本の西のはずれであるものの、中国北部、朝鮮、琉球といった、周辺の諸外国とのアクセスが良かったからだ。 ポルトガル商人の東アジアの拠点は中国のマカオに建設されていたが、日本の北九州にも新たな拠点を作ることで、彼らはさらに珍奇な商品を広範囲に扱う機会を増やしたのだ。







☆書籍『村上海賊の娘』より


☝・・・また、忘れてはならないのが、日本の最も重要な海路である瀬戸内海は、戦国水軍(海賊)が強力に支配する領域だったということだ。


村上水軍を代表とする瀬戸内の水軍は、誰であろうと、自分たちの支配する領域に入った舟には「津料」「警固料」を名目とした、いわば「みかじめ料」を課したと伝わっている。 水軍は、さらに時には積み荷を奪い取るという、南蛮商人からすればまるで天敵のような存在だった。


通行するだけで財貨を一方的に取られては、ポルトガルの冒険商人の名が廃る。 海に境界は無いじゃないか!・・・ということで、水軍を避けるために外洋(太平洋側)に出れば、そこは波がけた違いに高く、また流れの速い黒潮のせいで帰還が困難となり、台風といった暴風雨の影響も大きいことから、難破する危険性が跳ね上がったのだった。


「信長が堺の町を直轄にして、南蛮と直に貿易をしていた」と教科書で学習するので、南蛮商人は日本のあちこちに出没していたようなイメージが今日ではありますが、実際は先ほどの理由で、基本的に彼らは平戸や長崎といった、日本の西の外れの港に集中したということなのだそうだ。







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脱線から戻ります。


☆『戦国炎舞』より、ヴィレラ


さて、平戸から追放され豊後の国・府内に戻ったヴィレラでしたが、時を置かずしてまたも布教の任に赴くこととなる。 なんと、今度は大胆にも畿内に入り、京の都での布教活動を計画したのだ。


この計画が困難であることは初めから分かり切っていた。 九州の地での布教活動では「ドゴーンさん」こと、大友宗麟の名前を出せば事は丸く収まったが、その点畿内には大名クラスの庇護者はおらず、またそこは「南都北嶺」といわれた日本仏教の中心地である。 言動をひとつ間違えれば、荒武者法師といった過激な仏教徒によって命が狙われるのは明白だった。


また、京の都は長らく続く戦国の世における係争地であり、かなり荒廃していたらしい。 かのザビエルもその地での布教活動は無理だと諦めたほどのレベルだったのだ。


果たしてトーレスやヴィレラに勝算はあったのだろうか? ・・・一説には、一足飛びに日本の国家元首である天皇、あるいは中央政権の長である足利将軍に布教をして信者にする狙いがあったといわれているが、それは分の悪い賭けだったろう。 しかし、分の悪い賭けであってもトーレスやヴィレラはそうせざるを得なかった。 アジア地域で最もキリスト教布教が有望だと期待された日本で、その布教が成功するか否かは、イエズス会・・・ひいてはカトリックの世界戦略にとって重要な試金石となったからだ。







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畿内でのキリスト教布教は分の悪い賭け・・・。 しかし、ヴィレラには心強い同行者がいた。それがロレンソ了斎(りょうさい)である。 ロレンソといっても彼は日本人で、元は盲目の琵琶法師として西日本各地を流浪していたが、周防の国・山口でザビエルの説教を聞いてからはキリスト教を厚く信仰するようになり、ザビエルから洗礼を受けてロレンソの名を授かったのだった。


目の不自由なロレンソは外見は貧弱であったが、ひとたび琵琶を奏でて演説・説教をはじめると、それはとうとうと淀みなく、名説教家だったといわれている。 以後ロレンソは、日本語が片言の宣教師に代わって、様々な場でキリスト教にまつわることを代弁することとなる。


☆『戦国炎舞』より、ロレンソ了斎







では、話を戻すことにしよう。



☝・・・永禄2年(1559)、ヴィレラ、ロレンソら一行は上京したようだが、その年の具体的な活動はよく分かっていない。 しかし翌年、〝苦難の末”に将軍・足利義輝と畿内一の実力者・三好長慶との謁見が実現したという。 さすがに、将軍・義輝や三好長慶をキリシタンにすることはできなかったが、その領内での布教活動の許しを得ることができ、一定の成果を上げることができたようだ。


将軍への謁見には、豊後の国主・大友宗麟の後援があったことが伝わっている。 折しも、九州北部のほとんどを制圧した大友氏が、幕府のお墨付きをもらおうと将軍・義輝に交渉をしていたのもこの頃で、ヴィレラたちはその一行に随行していたものと思われる。 そして謁見の際にその末席に加わって、「ついでのお願い」と申し出たのかもしれない。 大友宗麟はヴィレラなど宣教師たちにとって、とてもありがたい庇護者であったね。


また、将軍への謁見が叶う一方で、さすがに天皇への謁見はかなわなかったようだ。 内裏に入るだけでもそこは一定の身分(公卿・公家の身分)が必要なはずだから、それは無理からぬことだったろう。









☝・・・このとき、ヴィレラは将軍の足利氏に手土産を献上したのだが、その品物のうちに「砂時計」があったことが伝わっている。 これがキャッチーなエピソードとゆうことで、今日のオンゲ各種ではヴィレラのキャラ絵に砂時計が共に描かれることになった。


『ixa』でもヴィレラさんはその手に砂時計を持っていますが、そうゆう訳だったのですね~。 ・・・それよりも、天下の将軍が砂時計を贈られて、いったい何に使ったのかが気になるところ。 ちなみに、当時の砂時計はカップラーメンではなく、w、主に医療の分野で用いられていたようだよ。 (→ 心拍数を測る、血を抜く際の時間を測る、などといった使い方だったようだ。)







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☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化したヴィレラ


☝・・・さて、将軍と三好氏に一応の布教許可を貰ったヴィレラ一行であったが、計画の時点からあった懸念のとおり、それからの日々は苦難に満ちていた。


まず、住むところが見つからない。 仮に住む場所を見つけたとしても、ヴィレラたちが(キリスト教布教のため、結果的に)日本の神仏の悪口を言っているとなると、町の人たちはこぞって彼らの排除にのりだした。 京の都(下京)は「天文法華の乱」が起きた中心地であり、そこでは仏教の法華宗が根強く信仰されていた。


やがてヴィレラたちは、すったもんだの末に、ようやく金に困っている家主を見つけて家を買うことができた。 それは京・四条姥柳という場所にある廃寺で、廃寺というだけあって、朽ち果てる寸前の廃屋だった。 その状況は、「天井越しに星が見え、壁は崩れて犬猫はおろか、人でさえも自在に出入りOK」というボロ家であった。 orz


彼らは常に好奇のまなざしで見つめられ、子供たちからは石や馬糞を投げつけられる。 大人たちからは嘲笑と罵倒の的になる。 日本語があまり理解できていないのに、仏僧からは難しい宗論を吹っ掛けられる。 冬が異常に寒く、ボロ家に住んでいたため、寒さで死にそうになる・・・などなど、ヴィレラたち一行は望んで苦難に立ち向かったものの、いつ挫折してもおかしくないほどの試練の連続であった。







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「清貧と貞潔」ーーー これはイエズス会の綱領のなかでも最も大切な理念とされていたものだったが、ヴィレラたちはその理念を地で行っていた。 そして、日々布教のかたわら奉仕活動にいそしんでいたのだったが、彼らの活動を苦々しく思う者があった。 それが、三好氏の有力な家臣・松永弾正久秀である。









☝・・・松永久秀はこう見えて、キリスト教はもとより西洋文化全般が嫌いだったらしい。 『ixa』では概ね兵器適正が高めの久秀ではあるが、その軍は鉄砲は重視しなかったと伝わっている。


久秀はキリスト教に興味があると教会に伝え、宗論がしたいとヴィレラを奈良(おそらく多聞山城下)に招いたのだった。 もちろんこれは謀略で、なんくせをつけて殺してしまうのが目的である。


当時の久秀は「乱世の梟雄」と呼ばれるような凶悪な行動はまだ行っていなかったが、久秀の周辺にキリスト教を敵視する勢力が集まっていることは教会側もうすうす察知していて、ヴィレラの代わりに別の人物を派遣した。 ・・・それが、先ほど名前のあがったロレンソ了斎である。







☆『戦国姫譚 MURAMASA』より、姫化したロレンソ了斎


☝・・・了斎は奈良の地で、仏僧と松永久秀の部下3人を相手にキリスト教についての演説を行った。 一説にそれは三日三晩続いたという。 ベンベン♪(琵琶の擬音デスw)


琵琶を奏でつつの、了斎の名演説は敵意を持っていたはずの人の心を動かした。 首謀者である久秀がその場に居なかったのも幸いだったといえるだろう。 かくして、了斎は久秀が仕掛けた宗論/謀略を無事切り抜けることができたのである。


なお、了斎の「ベンベン♪」を聞き、松永の部下のなかでも高山友照はとりわけそれに感動し、のちに家族・家臣を引き連れて、ヴィレラを師として集団で洗礼を受けたことは、ヴィレラが主催した畿内の教会にとって大きな収穫だった。


この洗礼を受けた集団の中に幼き日の高山右近がおり、彼はのちにキリシタン武将として出世をし、多方面にわたって影響力を発揮することとなるが、これはしばらく後のお話・・・。


☆『千万の覇者』より、高山右近







奈良での宗論のあとの数年間は、ヴィレラたちは京都に在住し、圧倒的少数であるものの、じわりじわりと広がっていく日本人信者への対応・・・キリスト教の祭祀をすることで日々を過ごしていたようだ。


ただし、その間も戦乱が起こる/起こりそうになるたびに、京の都を脱出して泉州・堺の町に避難するなど、ヴィレラたちは”彷徨う”ことが日常となっていた。 堺の町では、キリスト教に関心のある商人・日比谷了珪の支援によってヴィレラたちは保護され、安全に過ごすことができた。







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さて、ヴィレラたちが京の都と堺の町を往復するそんななか、ある一人の重要な人物が彼の下を訪れることとなる。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化したルイス・フロイス


☝・・・永禄8年(1565年)、イエズス会にとって、いや、日本史にとってきわめて重要な人物がヴィレラの下に派遣されてきた。 ーーーその青年・・・彼の名は、ルイス・フロイスといった。


フロイスはヴィレラと同じポルトガル人で、7歳ほどヴィレラよりも若かった。 その青年宣教師・フロイスは特別な才能を持っていたのだが、それは、文筆・語学の才である。







☆『戦国武将姫Muramasa』より、姫化したルイス・フロイス


☝・・・フロイスは幼少の頃から非凡な才能があったらしく、少年の9歳の時にはすでに、王宮の秘書室で文筆・通信にまつわる仕事に就いていた。 のちに信心が芽生えたのか、彼は16歳の時にイエズス会の会員となり、すぐにポルトガル領インドに派遣されて、宣教師として活動を行っている。


「あらゆる文筆の仕事に長じ、判断力優秀、天性語学的才能あり」 ・・・と上司から絶賛されるほど、フロイスは優秀な人材であった。 彼はやがて日々の記録をもとに、『フロイス著・日本史』を記すこととなる・・・。


フロイスの著した書はキリスト教や欧州世界を絶対化したフィルターがかかっているものの、その文章は格調が高いと評され、単に時事・見解が述べられているだけでなく、彼と直に接した著名人については、まるで内面まで洞察したかのような観察描写が見事で、戦国時代の日本を知るためのこの上ない貴重な資料となっている。


・・・と、このような人物が合流するなど、ヴィレラが主催する畿内の教会はだんだんとその面子が充実してきた。


しかしその年、突然に変事が勃発、京の都は戦乱に巻き込まれることとなる。







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☆『千万の覇者』より、足利義輝


☝・・・その変事とは「永禄の変」である。 畿内一の実力者・三好長慶が没した後、その跡を継いだ三好家中の有力者たちが暴走をして、将軍・義輝に対して下剋上の実力行使に至ったのだった。 義輝は剣の達人であったものの、多勢に無勢、あえない最期を遂げる・・・。







☆『戦国ixa』より、松永久秀


☝・・・こうして将軍を排除し、京の都を掌握した三好一党だったが、そのなかに松永弾正久秀が含まれていた。 久秀は「奈良の宗論」のことを忘れてはおらず、あいかわらずヴィレラたち宣教師を憎んでいた。 久秀は時の天皇・正親町天皇に宣教師たちの追放を上奏する。







☆『ウィキペディア』より、正親町天皇


☝・・・正親町天皇に悪気があったのかどうかは分からない。 しかし、天皇とゆう役職は日本の祭祀を司る長でもあり、異国の宗教が京の都ではびこるのは嫌だと感じたのかもしれない。 結果的に、久秀の意見を受け入れるかたちで天皇は「キリスト教宣教師、追放の綸旨」・・・通称「デウス払い」を発令し、そのためにヴィレラたちは京の都から追い出されてしまった。







☆『戦国炎舞』より、姫化したヴィレラ


☝・・・その後ヴィレラは堺の町に退去したと言われている。 この追放令のおかげで、ヴィレラの日本における布教熱はいささか冷めてしまったのか、日本を離れ、朝鮮での布教を検討したことが伝わっている。(しかしこれは計画倒れになってしまったようだ。) また同時期、京の都の教会で苦楽を共にした、才能あるロレンソ了斎、フロイスとも別れてしまった。







☆『千万の覇者』より、千利休


☝・・・退去先の堺の町でも、ヴィレラは布教活動を行っていたみたいだ。 堺の町といえば千利休の出身地として知られており、千利休はやがて茶道を大成して「侘茶」を創設することとなるのですが、その侘茶には偶然とは思えないほどキリスト教の精神がその奥に盛り込まれていると言われている。


たとえば、茶席において、濃茶を一つの茶碗で回し飲みする作法などがそうだと言われていて、これはロマンの領域ですが、もしかしたら千利休は堺に在住中のヴィレラからキリスト教の教えを学んだのかもしれない。


ヴィレラは堺の地にしばらく滞在したのち、豊後の国に移ったと記録にはある。







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☝・・・元亀元年(1570)、ヴィレラ45歳のとき、彼は日本を離れて故郷に戻ることに決めた。 長年の無理がたたり、彼の身体は病気がちになってしまっていたのだ。 思えば、キリスト教のためにその身を捧げると誓ったものの、若き日に母国ポルトガル、イベリア半島を発ってからあまりも長く異国での時が経ち過ぎた。 


しかし、故郷を思う心もむなしく、日本を発ってから2年後、ヴィレラは母国の風景を見ることなく、インドのゴア(ポルトガル領)で熱病に罹り息を引き取ったという。







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ヴィレラは『ixa』での固有スキル、「彷徨う福音」のとおり、キリスト教の布教活動にその身を捧げ、あちらこちらと彷徨った人生だったといえるだろう。 銅銭スキルの理由は、南蛮人宣教師が現れる場所(港)には必ず南蛮商人も出入りし、その地は貿易の利益によって潤い、栄えたことにちなんだに違いない。


”尖兵”となり、畿内に初めてキリスト教の拠点をつくったのがヴィレラの大きな功績で、そのあとを継いだフロイスは信長との繋がりを持つことができ、発展していく。 また、地道な奉仕活動(病人の看護など)で民衆に慈愛を示し、日本の地において徐々にキリスト教が受け入れられる土壌を作っていったのも特筆される事績だろう。


ただ、惜しいのは、ヴィレラ個人の人となりとか、そのキャラクターを際立たせるエピソードといったものがあまり無いところが残念な点だ。 しかし、他の宣教師がそうであったように、ヴィレラもまたたくさんの書簡を本国・ポルトガルやバチカンに送っているはずなので、もしかしたら彼に関するエピソードが書かれた書簡や記録がどこかにあり、そういったものが古めかしい書庫の奥で埃をかぶって眠っているかもしれない。 それらに日の目が当たり、ヴィレラの研究が進むことを願うばかりだ。
 






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と!ゆうことで、今回はこのあたりでお開き・・・ですが、


最後に、ここまでわたしはヴィレラをはじめ、ヨーロッパ人宣教師について好意的な見方をしてきましたが、そこに少し水をさして今回を締めたいと思います。







ヴィレラをはじめとした宣教師たちは、キリスト教を広めるために善意の行動を行い、地位や金銭といった見返りを求めない、慈愛ある人々であったことは十分にわかる。


しかし、善意の宣教師がいる一方で悪人がいた。 南蛮人の商人である。 彼らはボッタクリの価格で暴利をむさぼる、いわゆる「転売ヤー」だった。 当時、貿易品は一般的に仕入れ値のおよそ10倍で取引されていたと言われている。 加えて船は往復するものだから、10×10、つまり100倍の利益が見込めたのだった。


中世の貿易行為を今日の転売行為とイコールで考えるのはアンフェアと言えるかもしれませんが、彼ら南蛮商人が海賊や詐欺師と紙一重であったことは、様々な資料によって知られている。


南蛮人商人の日本でのエピソードの一つとして、彼らは飢饉で困窮した人々をわずかな金銭や食事で釣り集め、契約なしに奴隷として世界各地へ売り飛ばすなど、悪行を行っていたことが有名だ。 (なお、このことについては、南蛮人商人だけでなく、日本人の「人買い」もいたことも併記しておきます。)







また、宣教師たちの本国、ポルトガルの軍人たちは、宣教師の報告をもとに征服計画を練っていたのも確かなようだ。


1510年、インド・ゴアの占領
1511年、マラッカ王国(マラッカ海峡にあった国)の占領・征服
1513年、中国・マカオに拠点を作る
1557年、マカオの永住居留権を獲得


1562年、日本・横瀬浦がイエズス会に寄進される
1580年、日本・長崎の港と町がイエズス会に寄進される
1587年、豊臣秀吉の「バテレン追放令」によって、イエズス会の日本領は没収される


また、スペインもアジア地域に進出していた。


1521年、マゼランの船団がフィリピンを発見、征服に着手する
1529年、ポルトガルと条約を結び、フィリピンはスペインのものと決めた
1565年、新たなスペイン兵団がフィリピン・セブ島に到着、拠点を作る
1570年、マニラ占領をもってスペインのフィリピン征服は完了する


☝・・・どうだろう。 大航海時代は大征服時代であった。 世界規模の大きな視点でものを見ると、聖職者が善い行いをし、商人が利益をあげ、軍人が征服にやってくる。 この3者は征服国家の国家戦略を分業していたと言えないだろうか?


バチカンにいるローマ法王も、「異教徒の所有物は奪っていいよ。てゆうか、むしろ積極的に取っていってOK!」といった解釈のできる指針を示しており、大航海時代におけるヨーロッパ各国の征服活動を事実上公認していた。(もちろん、心ある聖職者はこのことに罪悪感などといった葛藤を感じていたこともあわせて記しておく。)







☆『千万の覇者』より、大友宗麟


☝・・・日本も征服の対象だったことは、宣教師らによる複数の記録からも明らかになっている。 プレスター・ジョンの伝説は東の果てに黄金の国がある、という西洋の伝説だったが、果たして、ユーラシア大陸の東の果てには金銀を豊富に産出する島国・日本があり、南蛮人にとってそこは魅惑の地だったに違いない。


彼ら南蛮人の軍人は、九州の大名(おそらくは大友宗麟)を中央の勢力と反目させて大きな戦乱を引き起こさせ、最後は漁夫の利を頂く戦略をとっていたと一説には言われてる。


しかし、戦国時代はその過酷な時代ゆえに、日本の歴史上まれに見る英傑、大政治家を次々と輩出した。







☆『千万の覇者』より


☝・・・あの時代、信長の果断な武略によって迅速に中央政権の基盤がつくられ、あとを継いだ秀吉が南蛮人の意図に気づいて〝適切な処理”をしていなかったら、歴史はどうなったかはわからない。


こういったことに思いをはせるのも、わたしが戦国時代が大好きな理由の一つなのデス^^


(つづく)



注:この文章はブログ主の見解です。

宣教師、修道士、神父など、聖職者の職位について間違って記入してしまったかもしれません。








『戦国ixa』
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