2017年8月29日火曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(5)~


ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/08/ixa6364.html
キャラ絵小話!小田氏治さん編(4)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Murasama』より、小田氏治








(☆前回のあらすじ)



☝・・・『グーグルアース』より。(※長尾氏視点のため、南北を逆転して地図表示をしています)


永禄4年(1561年)2月、古利根川を境界線にして、長尾ー上杉方と北条の両陣営は対峙した。 長尾景虎は決戦を挑むべく、11万というかつてない大軍勢を率いて、北条氏康の本陣がある松山に向けて進撃していったのだった。 我らが小田氏治さんも長尾景虎の指揮下に入り、推定数千の兵を率い、その大軍勢の一翼を担っていたのだった。







そんな状況のなか、こちらはもう一方の大将・北条氏康である。





☝・・・怒涛の如く攻勢をかけてくる長尾ー上杉方に対して、北条氏康は後手を踏まざるを得なかった。 と、ゆうのはつい直近で、北条方から離反した下野の国・佐野氏の唐沢山城を懲罰・攻撃するために氏康は次男・氏照に軍勢を託して向かわせたのだったが、これが結果的には中途半端な作戦となり、さんざんに打ち破られてしまったからだ。 この時の長尾軍は韋駄天を彷彿とさせる機動力と、軍神・毘沙門天のごとくの強さを発揮したと伝わっている。


また、唐沢山城攻略の失敗に加え、北条軍を苦しめたのは「永禄の飢饉」である。 関東地方はこのころ飢饉に見舞われており、そのため北条方は充分な軍勢を手配できなかったともいわれている。 しかし、どの程度の飢饉だったのかは詳細な記録が残っておらず、よく分からないのが現状だ。







☆『戦国炎舞』より、北条氏康

「やむを得ない、撤退するぞ!」

☝・・・ともかく、北条方は前哨戦ともいえる加勢先で大敗したことと、飢饉による兵糧不足のために身動きがとれず、手詰まりの状況に陥ってしまっていた。 そんな厳しい状況下で、北条の総大将・氏康が全軍に出した指令は分かっている。 それは堅守防衛・・・すなわち、全支城の籠城だった。


このように北条氏康は全軍の方針を決定すると、松山を捨てて本拠地・小田原へと引き払った。 このことは、「戦場においては常に先陣で刀を振るい、敵に後ろを見せたことがなく、向こう傷ばかり」という猛将の氏康にとっては、なんともプライドを傷つける苦渋の撤退であった。 しかし、個人のプライドよりも全軍を優先し、臆病者の汚名をかぶってでも一時退却という手堅い判断を下したのは、さすが関東の覇者たらんとする氏康の器量だといえるね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国やらいでか』より、長尾景虎

「ここにきて決戦を避けるかっ!?」

☝・・・北条軍が決戦を避け小田原に撤退したことで、野戦で決戦をしようと意気込んでいた長尾景虎は調子を外されたかっこうとなった。 しかし景虎はすぐさま気を取り直し、松山城攻めに取り掛かる。 総大将・北条氏康が去った松山城は、気炎を上げる長尾ー上杉方の包囲攻撃を受け、あっけなく落城した。







☆『グーグルアース』より


☝・・・松山城を奪った翌朝・払暁ーーー。 日の出前に目を覚ました長尾景虎の眼前には、北条氏が支配する南関東平野がどこまでも広がっていた。 3月の上旬ということで冷え込みもまだきつい。 白い息を吐きながら、立ち昇る朝日に染められて、地上も空もオレンジ色となった景色を景虎は目を細めて眺めていた。


南関東の要地には北条方の支城がそれぞれ配置され、本領・小田原を守っている。 それはまさしく十重二十重とめぐらされた防御線であり、その重厚な守りの最奥に小田原城は鎮座しているように思えた。


「この先、どう北条と戦っていったらいいものかーーー。」


景虎は護摩を焚き、毘沙門天に祈りを捧げながら瞑目、数珠をつまぐりながら黙考する。 祈りが終わり、景虎がおもむろに眼を開いたときには、すでに日は勢いよく昇りだしていた。 景虎は諸将を集め、その方針を告げる。


「皆、直ちに北条氏康の追撃に移れ。 長駆、小田原に向けて電撃的に軍勢を進めるのだ!」 ーーーこれは実に驚嘆する作戦だと言えた。


「桶狭間の合戦」や「厳島の合戦」など、たとえ大軍であっても敵の勢力下に軍を進めた場合、本陣が敵の少数精鋭の奇襲にあい、総崩れになった戦いの例は数多い。 景虎の方針は超・攻撃的であると同時に、一気に敗北する危うさをはらんでいた。


景虎があえて危うい行軍の指示をしたのは、守りに徹する姿勢を見せた、北条軍に対する挑発といった意味があったのだろうか。 あるいは自らが大軍ということで、仮に奇襲を受けても動じないという、威厳と余裕のある姿勢を見せつけたかったのか。 戦国時代・最高の戦術家と称えられる景虎の心中はわたしには計り知りえないが、こういった「大胆不敵な、敵中行軍の用兵」が景虎の凄みと言えた。


こうして、長尾ー上杉軍旗下の諸将は景虎の苛烈な作戦に震撼しつつ、持てる最大の機動力で小田原に向けて進軍した。 この行軍には多くの隙があったと思われるが、北条軍はそれを誘いと見なして堅守に徹したため、けっきょく両軍は野戦での決戦に至ることはなかった。







☆『グーグルマップ』より、現在の小田原周辺


☝・・・小田原城ーーー。 日本各地に難攻不落と銘打った城は数多くあるけれども、戦国時代において小田原城ほどその名の知られた堅城は他にはなく、その代表であると言えるでしょう。


戦国期の小田原城は町一つをぐるりと土塁で囲って守った「総構え」の城で、非常に広い城域を持った城だということが伝わっている。 そして「総構えの土塁」というのは、ただ土を盛って塀を建てていただけではなく、「矢倉」や「格子堀」といった、寄せ手にとって非常にやっかいな防御施設がいくつも組み合わされて展開されていた。


掲示した画像のほぼ中央に小田原城の本丸があり、その前後を中小の河川が挟んで流れているのが分かるでしょうか? 「総構え」の土塁は、その二つの河川の間の地域を囲って小田原城を守っていたという。







☆『戦国サーガ』より、長尾景虎

「懸かり乱れ龍の旗、立てい! 攻撃態勢に移れ!」

☝・・・11万余という大軍勢を率いた長尾景虎は、諸将を振り分けて小田原城を包囲させ、攻撃の下知を下した。 それを受けて、あちこちで兵たちの戦いが始まっていく。 鳴り響く太鼓に半鐘、上がる鬨の声。


景虎は必勝の思いでこの攻城戦に臨んだはずだ。 しかしこの戦いは逆に小田原城の堅牢さを世に知らしめる結果となっていく。


圧倒的に有利な状況下で小田原城を攻めた長尾ー上杉軍であったが、その城攻めが始まるや否や、厭戦気分がその軍には漂い始めていたのだ。







(イメージ)


「おい・・・ちょっと小耳に挟んだんだけどよ、長尾の殿様は戦いに勝っても褒美を与えるってことをしないんだって?」

「ええ!? そんなはずがないだろう?」

「いや、越後の衆らがボヤいていたよ。 本領の安堵状は出してくれるらしいが・・・」

「マジかい!? そんなら本腰入れて戦う必要あんめえ! 死に損、傷負い損などまっぴらごめんだぜ!」

「ここだけの話よ、雪国の連中は人使いが荒くてかなわねえな!」

「まったくだよ! 松山から小田原まで、休みなくイッキに戦いながら進んでいくだなんて、正気の沙汰じゃねえよな・・・。 本気で戦うのは越後の衆らがすればいいんだ」

「んだんだ!」

「兵糧の配分も少ないしなぁ。 オイ、このあと近くの村へ乱捕り(略奪)に行くつもりなんだけどよ、お前もいっしょに来ないか?」

「ああ、ぜひ一緒にさせてくれ・・・と言いたいところだけどよ、ここ周辺の村の連中はほどんど、あの城(小田原城)の中に家財ともども逃げ込んだっていう話じゃねえか。 無駄足だよ」

「なんだって!? ・・・ますますやってらんねえな!」

「なぁ、おれたち、ひょっとしてとんでもねえ殿様に味方しちまってるんじゃ・・・」


☝・・・関東兵たちの間に、実際どのような会話があったのかは定かではないが、要するに、こんな感じで厭戦気分は広がっていったようだ。









☝・・・実は先ほどの兵たちの会話、北条氏康が忍者の風魔党に命じた「流言飛語の計略」がその発端であったが、これにはかなりの部分で真実が含まれていて、景虎にとっては〝痛いところを突かれた”結果になった。


こうして、「義の人」と呼ばれ戦術の天才と言われた長尾景虎も、他郷の下々の兵までその人心を掌握することはできず、兵のボヤキはやがて将の身分の者たちの不満となって渦巻いていくのだった。







☆『戦国やらいでか』より、姫化した北条氏康

「〝義の人”の長尾景虎が、実はドケチだったってゆうのが傑作だわな!w」

☝・・・さすがは関東の覇者たらんとする北条氏康である。 ただ無為無策に撤退・籠城をしていたのではなく、計略を仕掛け、長尾ー上杉軍の結束を乱し、戦意を削ぐことに意を注いでいたのだった。


その他にも氏康は、外交交渉による援軍要請を水面下で行うなど、大軍勢である長尾ー上杉軍に勝つための布石を一打づつ、着実に打ち重ねていく。










☝・・・この時の北条氏の大ピンチにうまく機能したのが「甲駿相、三国同盟」である。 北条氏は持てる外交力のすべてを絞り出して、盟友である今川、武田氏と交渉を行い、後詰(援軍)と側面支援となる軍事行動の約束を取り付けたのだった。


まず今川氏であるけれども、今川家はつい先年、「桶狭間の戦い」で当主・今川義元が討たれる大敗北を喫し、家中が大揺れしているとゆうさなかであったものの、キチンと援軍を組織して後詰の部隊を派遣した。 今川氏真という人物は、意外とこんにち世間で思われているほどのバカ殿ではなかったようだね。


もう一方の武田氏であるが、機略に富んだ武田信玄は、このとき「心得た!」と言わんばかりに信濃の国・川中島方面へ出兵し、手薄になっていた長尾氏の属城を攻め落とす。 さらには国衆の調略や新たな砦(のちの海津城となる)の建設など、長尾氏が嫌うあらゆることを北信濃で行い、横やりを入れたのだった。


これら武田の一連の嫌がらせは的確で、これによって長尾景虎は心底はらわたを煮え返したらしく、このことはやがて訪れる同年8月の、「川中島、ガチの戦い」へと繋がっていくが、これはまた別のお話・・・。


ともあれ、このとき自ら大軍の矢面に立たず、北条氏にも恩を売って有利に戦略を進める信玄は、さすがは戦国時代最高ランクの謀将といったところだろう。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した北条氏康


☝・・・外交によって武田が動き、北信濃の長尾の勢力に揺さぶりをかけることができた時点で北条氏康は確かに感じただろう、「これで流れが変わった」と。 北信濃へ揺さぶりをかけるということは、長尾氏の本拠地・上越地方の春日山城が揺れることとほぼ同じ意味を持っていた。


とはいえ、小田原城の目の前に陣取る長尾景虎には、いまのところ動揺するそぶりはまるで見せていない。 小田原城の合戦は、ここにきてある種チキンレースの様相を呈し始めてきた。


北条氏の小田原城が落ちるのが先か、それとも北信濃の状況悪化に我慢ができなくなった長尾氏が撤退するのが先か。 北条氏 VS 長尾ー上杉方の戦いの行方は、いまだ決せず揺らいでいたのだった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


そんな、両雄にわかに緊迫した状況において・・・


☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治

「う~ん。 いまいち戦いが盛り上がってこないけど、それも仕方ないね! @@;」


☝・・・蛇足気味ですが、ここでようやく小田氏治さんのご登場w


このとき、氏治も小田原城の攻城戦に参加し、どこかしらの場所で戦っていたものと思われる。 しかし、これといったエピソードといったものも残っていないことから、長尾ー上杉軍に蔓延していた厭戦気分のあおりを受け、本腰を入れず、惰性で戦っていたのでしょう。


「疲れたから、家に帰って寝たい・・・」 (-_-)


疲労すると、とたんにテンションダウンする氏治であった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)




※この文章はブログ主の見解です。






『戦国ixa』
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2017年8月24日木曜日

戦国ixa(63+64鯖):プラチナ極・宇喜多モニカさん、配布される!

ixaコラム:経験0からのIXA!





関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa_27.html
(コミックゼノンキャンペーン、はじまる!)









☝・・・そういえば、「戦国IXA生誕記念祭」というキャンペーンが開催されていますよね!




☝・・・そこでの目玉となっているのが、プラチナ極・宇喜多モニカさんカードです!









☝・・・やた~! ゲトしたど~! (^ω^)


配布のプラチナ極カードとしては、昨年12月に配布された「神嵐襲来」の立花宗茂さん以来かな? ほくほく^^


さてさて、配布された新モニカさんの気になる固有スキル・「紫電清霜」の実力や、いかに!?
(`・ω・´)







☆サイト・『戦国ixa wiki』より


☝・・・今回配布されたモニカさんのスキルレベルを10まで伸ばせば、全攻10% + 全速35%アップ、そして特殊効果として「単独出撃時は速度効果10倍」と、天・前田さんなどのスキルに準じたスペシャルなものとなっていました・・・!









☝・・・スペシャルなのはなにもスキルだけではなかったみたいだ。 新モニカさんはコスト1で指揮兵数が1500、そのうえ兵科適性はオールAとコスト比がかなり良く、さらに成長値は攻撃力が41と、剣豪なみの成長値を持っていたのです。 こ・・・これはかなりの良カードや~! (彦摩呂風) @@







今回の配布モニカさんの特色
①単独出撃の場合、スペシャルでべらぼうな速さを誇る
②剣豪並みの攻撃成長
③コスト1と、低コストでそのうえコスト比が良い
④兵科適性オールAと、万能性があること


☝・・・う~ん。こんな良カードをログインするだけで配布してくれるだなんて、ixaの運営さんは本当に太っ腹ですねぇ。 本城を赤陣で取り囲まれた場合でも、この新モニカさんを効果的に使えば、打開できる可能性がグッと高くなるような・・・そんなポジティブな印象を持つ、良カードなのです! (^ω^)









☝・・・と、このように、この「紫電清霜モニカさん」の配布でわたしは素直にうれしいと感じる一方で、こんな効果的なカードが全員配布されて、ライバルとなるすべてのプレイヤーも同じような使い方をしてくるかと思うと、これからの戦いがよりカオスに、より熾烈になるだろうことが悩ましく思われます。


新モニカさんが単独出撃すれば、その移動時間は1パネル30秒弱ほどでしょうか? と、なると、自分が仕掛ける時は良くても、相手が仕掛けてきて受けに回る場合はよほど集中してゲームプレイをしていなければ、その対応が困難だからです。


「紫電清霜モニカさん」の登場で、これからの合戦はより熾烈に、より疲れるものになっていきそうですね・・・! @@;







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




☝・・・さてさて、こちらは今回配布された清霜モニカさんのキャラ絵をどアップで。 絵師はBANAMONSさんという方のようだ。




☝・・・個人的にモニカさんといえば、オリジナルを描かれた絵師・葉山えいしさんのキャラ絵がそのイメージのベースとなっているので、今回の「清霜モニカさん」が葉山さんの絵でなくて少し残念だったり・・・w |ω・`)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


さてさて、ところで、宇喜多モニカさんって、実際はどんな人物だったのでしょう? @@




☝・・・そう思って「いくさぶる解説文」を見てみたところ、モニカさんは乱世の梟雄・宇喜多直家の娘で、明石全登(あかし たけのり、あるいは「てるずみ」として知られています)の妻だったのですね。


そして、モニカとゆうのは(当然と言えば当然ですが)洗礼名のようだ。 本名は不明! orz ちなみに、「合戦時には宣教師と共に負傷兵の看護にあたっていた」・・・と先ほどありましたが、この合戦とは、慶長20年(1615年)にあった「大坂の陣」のことのようだ。







☆『戦国IXA』×『のぶにゃがの野望』コラボより、宇喜多モニカ


☝・・・実在した宇喜多モニカという女性については、実際のところは全くと言っていいほどその実像はわかっていないようだ。 本来ならば、彼女の実家・宇喜多家は豊臣政権下では5大老の一つとして、かなりの家格と実力を持っていたので、当然彼女の記録もある程度は残っていてしかるべきはずだった。


しかし、慶長5年(1600年)にあった「関ケ原の合戦」で、宇喜多家は西軍に属して敗北してしまったため、お家は取り潰しにあい、家譜といった歴史書もその際にあらかた失われてしまったようだ。 あるいは一説に、関ケ原の戦後、宇喜多家の本領・岡山を引き継いだ池田氏が宇喜多家にまつわる文書や伝承といったもののことごとくを消し去ったため、宇喜多家の歴史はほとんど分からなくなってしまったと言われている。 (-_-)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


話題は変わりますが、それにしても、彼女・・・宇喜多モニカさんの周辺には、けっこうキリシタンが多いですね。




☝・・・モニカの弟(異母弟)の宇喜多秀家と、そのお嫁さんである豪姫。 一説に、宇喜多家にキリスト教を流行らせたのは豪姫だったようだ。 秀家は豪姫に言われるがままキリシタンになり、w、さらには宇喜多家中の家臣たちにキリスト教信者になるよう推奨したことが知られている。


ちなみに豪姫は洗礼名をマリアといったが、夫の秀家は特別な洗礼名といったものは無かった模様だ。





☝・・・モニカの旦那である明石全登(たけのり)。 洗礼名はジョバンニ・ジュストと伝わっている。 彼がキリシタンになったきっかけは、やはり宇喜多家中におけるキリスト教流行に影響されたためだろう。


信仰の自由のため、やがて彼は徳川VS豊臣の戦いにおいて、わざわざ敗色濃い豊臣方に仕えて戦った。これは前の大河ドラマ・『真田丸』でも印象的だったかな。









☝・・・このように、モニカの周辺には多数のキリシタンがいたことが分かっている。


なお、宇喜多家中におけるキリスト教流行のいきさつを考えると、モニカは豪姫と親交があったように思われます。 「大坂の陣」でも二人は大坂城に入っていたと伝わっているから、城内の礼拝堂で共に祈りを捧げるなどしていたかもしれないね。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国大戦』シリーズより、明石全登


☝・・・宇喜多モニカという女性を調べてみたところで、彼女の事績はほとんどわからないことが解ってくる。 そうなると、必然的にその旦那である明石全登を調べることになっていく。


わたし的に、明石全登という人物のイメージは、「大坂の陣」で活躍した浪人衆の大将であり、かつキリシタン武将であったというものでしたが、調べてみるほどに、この人物は五大老・宇喜多家の筆頭家老を務めるなど、けっこうな大物であったことに改めて驚きと興味深さを感じさせられる。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した明石全登


☝・・・明石全登は「大坂の陣」において、「大坂5人衆」の一人として勇敢に戦ったものの、結局は豊臣方が負けてしまったことは多くの戦国ファンが知っていることである。


興味深いのは、真田信繁を筆頭とする「大坂五人衆」の全員は討ち取られたか、あるいは自害したものと公式ではそうなっているが、明石全登に関してはかなり有力な生存説がいくつかの伝承、遺物と共に西日本各地に残っている。


一説に、全登は生まれ故郷である備前の国に潜伏した後に、さらに九州へ落ち延びたとか、あるいはキリスト教関係者のつてを辿って、海外に逃れたと書かれた文書もあるようだ。









☝・・・官公庁のサイトより、明石全登の墓碑とされるもの。 四国の高知平野の各地には、明石全登とその妻、子供が大坂戦役後にこの地に逃げてきてやがて落ち着いた、とゆう伝承が墓石とともにいくつか残されているようだ。 きわめつけは、全登の子孫であるという伝承を持った家が存在していて、これらのお墓を現在に至るまで守り、保全してきたということだ。


学者先生からすれば、こういった類の伝承は信頼に値しない、とバッサリ切り捨てるかもしれない。 けれども、明石全登とその妻・モニカが「大坂の陣」を生き延びて、やがて土佐の国に逃れて生を全うし、今はここに眠っているのだと思うと、何だか感慨深いものがありマスね・・・! (`・ω・´)







(・ω・)(・ω・)(・ω・)





☝・・・と、ゆうことで今回はこのあたりでお開き。 天スキルに準じた高性能スキル・「紫電清霜」を持ったプラチナ極の宇喜多モニカさん。 戦場でかなりの活躍が期待されマスね! (^ω^)ノシ!


(つづく)


※この文章はブログ主の見解です。





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2017年8月4日金曜日

戦国ixa(63+64鯖):キャラ絵小話!~小田氏治さん編(4)~


ixaコラム:経験0からのIXA!




関連する前回
http://exp0stargalaxy.blogspot.jp/2017/07/ixa6364.html
キャラ絵小話!小田氏治さん編(3)







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☆『戦国姫譚Muramasa』より



前回のつづきです。 今回は「結城晴朝、代替わりの合戦」以降の小田氏治さんの事績を追っていきましょう!









☝・・・永禄2年(1559年)9月、小田氏治は佐竹氏らと連合して代替わりしたばかりの結城氏を攻めたが、あべこべなことに自分たちの領地を奪われてしまったーーーこれが「結城晴朝、代替わりの合戦」での小田氏治さんです。


なお、このときに奪われた小田方の城は、信頼できる資料によれば「海老ケ島」と「北条」の2城だけで、この時に小田城が落とされたという説はどうやら信ぴょう性が薄いようだ。 なので、当ブログではこの時の戦いでは小田城は落ちなかったものとして話を進めていきたい。







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☆『戦国姫譚Muramasa』より



☝・・・と、ゆうことで、「結城晴朝、代替わりの合戦」で小田氏治はあべこべに「海老ケ島」、「北条」の2城を奪われてしまっていた。


その戦いがあったのは永禄2年(1559年)だったが、その翌年の永禄3年は関東地方にとって重大な出来事がいくつも起こった。




☝・・・その一つが「桶狭間の合戦」である。 その年の6月、小勢の織田信長が大軍である今川義元を急襲してその首を取ったという、破格の戦功をあげた戦いであった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、甲駿相三国同盟に関連して


☝・・・桶狭間の合戦は東海地方の出来事なので、関東の情勢に直接的な影響は無かったとも言える。 しかし、義元の死によって「甲・駿・相、三国同盟」が根本的に揺らぎだし、やがて関東に強い影響力を持っていた大名・北条氏康、そして武田信玄といった謀君たちの戦略を大幅修正させることになり、結果、桶狭間の合戦は関東に大きな影響を及ぼしたといえる。







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☝・・・そしてもう一つ、関東にとってもっとも重大な出来事とは、「長尾景虎の越山、関東出兵」であった。




☝・・・こちらは山内上杉憲政。 長尾景虎の関東出兵のいきさつを改めて語る必要はないかもしれませんが、関東出兵はこの人物のかねてからの要請によって行われた。


憲政は関東管領職に就き上野の国をその領国としていたが、北条氏によるたびたびの攻撃に圧迫され、やがて上野の国に居られなくなり、様々な紆余曲折を経て越後の国・長尾景虎の下へ逃れていた。


憲政は長尾家に関東管領家の名跡・家職を譲るかわりに、景虎に関東出兵をしてもらい北条氏を討伐、あわよくば旧領を回復したいという、ある種ダメ元のような思いがあった。 一方の長尾氏といえば、「義のためならば出兵も厭わない」と表向きは宣伝していたが、現実的なことをいえば、関東管領・上杉家の名跡を継ぐことで権威を手に入れ、それをもって反乱の多い本拠地・越後の国を鎮め治めたいといった政治的な思惑があった。 とゆうことで、この両者の思惑が一致したことで景虎の関東出兵は実現したのだのだった。









☝・・・『グーグルアース』より。 (☆長尾氏視点のため、南北を逆転して地図表示をしています。) 永禄3年(1560年)8月、安房の国・里見氏からの救援要請をうけたことをきっかけに、長尾景虎はおよそ8000超の将兵を率いて春日山を出発、関東へ向けて行軍を開始した。 景虎はこのとき関東管領を正式に就任していなかったが、関東管領の名代(あるいは事実上の関東管領)として初めての軍事行動だった。 景虎はやがて三国峠を越えて上野の国に侵入すると、沼田、厩橋(読み:まやばし)などといった北条氏の支城を次々と破竹の勢いで陥落させていく。




☝・・・やがて厩橋を上野の国の本拠地と定めた景虎は、そこで軍をゆるりと休ませる。 そして自分たちの味方になるように、関東の諸大名に向けて檄文を飛ばしたのだった。







☆『信長の野望』シリーズより、長尾景虎


☝・・・「関東の地は室町開府以来、関東の公方様とそれを補佐する管領によってその秩序は保たれてきた。 しかし今日、公方様や管領殿に楯突く不届き者がこの地にはのさばっており、公方様たちの心を煩わせていることこの上ないので、わたしは義のため、これを討伐することを宣言する!」


・・・下剋上のお手本ともいえる長尾為景の子がそれを言うか!? と、檄文を読んで噴飯した武将もなかにはいたかもしれないが、いたって景虎は大まじめだった。 ともあれこの檄文によって、北条氏により圧迫を受けていた武家の多くが喝采を上げ、長尾ー上杉の旗下に馳せ参ずることになる。 それは確かな、反北条の一大ムーブメントであった。







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☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治


☝・・・ここでようやく氏治さんご登場。w この頃、周囲の様々な合戦で負け続けて、なんとなく「何をやらせてもダメな子」の雰囲気を醸し出し始めていた小田氏治だったが、景虎からはハブられることもなく、その使者と書状は氏治の所にもきちんと到着した。


「こりゃあもう、参加するしか手は無いでしょー!」


軍事行動においてもやたらと突出したがる氏治である。関東の地を沸かすような、こういったある種お祭り騒ぎのような雰囲気にはめっぽう目がなかった。 と、ゆうことで氏治は重臣らと碌な打ち合わせもせずに長尾ー上杉方として反北条の戦陣に参加することを決断したのだった。 すなわち、長尾ー上杉旗下・小田軍の誕生である。 氏治26歳のときであった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、長尾景虎


☝・・・年が明けた永禄4年(1561年)正月、上野の国・厩橋城で(名目上の)主家・上杉憲政と共にいた長尾景虎の下には、関東各地からぞくぞくと将兵が集ってきていた。 はっきりとした数字は諸説ありわからないが、この時点では主に上野・武蔵といった山内・扇ケ谷上杉の旧臣たちの支持を受け、景虎の軍は数万規模のものとなっていた。


軍勢が十分に集まったことで、景虎は諸将を数軍に振り分け、多方面にわたって軍事行動をすることができたようだ。










☝・・・『グーグルアース』より。 北条氏に抑圧されていた上野・北武蔵の国衆らの支持を受け、まず長尾景虎の矛先が向かったのは、北条氏と一体化していた関東公方・足利義氏だった。







☆『鬼武者ソウル』より、足利義氏(この人物は北条方)


☝・・・かつては下総の国・葛西を御座所にして「葛西様」と呼ばれた公方義氏だったが、このころは関宿へ御座所を移していたらしい。 義氏は北関東の諸将に向け、敵方に走らず自分に味方して欲しいと書状を書き送ったが、これはほとんど黙殺されてしまった。 やがて義氏は自分が孤立しているのを悟ると、軍神の化身とも称される景虎の大軍に怯え、情けないことに早々に館から逃亡してしまっていた。


足利義氏がその領国から逃亡したため、長尾ー上杉方はかつての関東公方の御座所・古河を易々と占拠した。 公方家の重臣・簗田氏が反北条の立場にあり、手引きをしたためとも思われる。 そして古河を手に入れた長尾ー上杉方は、足利藤氏(ふじうじ)兄弟を御座所に奉った。 長尾ー上杉方、反北条派からすれば、義氏は北条氏が擁立した非正統の傀儡公方であり、正統と大義名分は藤氏にあるという立場だった。







☆『戦魂~SENTAMA~』より、足利藤氏(この人物は長尾ー上杉方)


☝・・・足利藤氏と義氏のことは、このシリーズの第一回にて触れているので、それをお読みになった方なら古河公方家の複雑な事情について知っているはずだ。 ともあれ、長い間忍従を強いられていた藤氏は、ここで長尾ー上杉方に担がれることでようやく日の目を浴びることとなったのだった。







脱線ですが、戦国時代とは従来の権威が地に落ちて、下剋上ーーー実力がものを言う社会になったと今日では言われている。 しかし、(地域によって程度差はあるけれども、)実際には相変わらず権威が重んじられていたことがいくつかの資料では見て取れ、決して権威が無力になった訳でないことは多くの研究者も認めていることである。


関東・・・いや、東国と言った方が適当だろうか? その地域は戦国時代においてずいぶんと保守的であったようだ。 長尾景虎が反北条の将兵を集め、まず行ったのが伝統的権威の代表・関東公方家の故地、古河の解放であったとゆうことの持つ意味は大きいだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国姫譚Muramasa』より、小田氏治


「勝ち馬にのりのりー! 旧領回復じゃあ! (^ω^)b」


☝・・・さて、われらが氏治さんですが、彼もこの時のムーブメントで軍勢を率いて参加したとはっきり記録に残っているので、どこかしらの場所で戦ったはずだと思われる。 しかし、このときの詳しい資料は見当たらず、氏治が具体的にどのような行動をしたのかはよく分からない。


とはいえ、長尾景虎の関東出兵のタイミングで小田氏は失われた旧領を回復したと言われているから、その線で考えるとおそらくは結城周辺で戦っていたのではないだろうか。 結城氏は北条氏の盟友とゆうことで、長尾ー上杉方に抵抗をしていたのだった。


圧倒的な軍勢の差から、結城氏はほどなくして長尾ー上杉方に降伏することになるが、氏治はこの時勢に便乗する形で領地を結城氏から取り戻すことに成功する。 その後氏治は武蔵の国に向かっていた長尾本隊に合流、景虎の指揮下に入ったのだった。




(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国サーガ』より、上杉謙信



☝・・・さて、古河を解放した長尾ー上杉方は、やがて利根川以北の北関東から北条に加担する勢力を掃討、その地盤を固めると、つづいては武蔵の国・松山に攻め入ることに決めた。 松山には北条方の総大将・氏康がそこにはいて、北条方全軍の指揮を取っていた。 われらが小田氏治さんも、この前後に景虎の下に合流したものと思われる。


☆『グーグルアース』より、武蔵国における北条方の主な支城


☝・・・この松山攻めの直前で、長尾ー上杉方の軍勢は、この時代・この地域としては前代未聞の数となっていた。 その人数は(一説に)11万余りとゆう大軍勢だ。 これは、関東公方とのゆかりの深い古河が解放され、そこへ反北条の公方・藤氏が奉じたてまつられたということで、保守的な東国の武士たちにポジティブな影響を与えたからだといえるだろう。 このとき上野・北武蔵に加え、関東中部以北の大名たちのほとんどが長尾ー上杉方の味方をし、その勢いは天をも突くかのごとくだった。


長尾景虎は大軍勢を率い、敵の総大将・北条氏康の居る松山に向け、決戦を挑むべくその歩みを進めていく。 勝つのは景虎か、それとも氏康か。 関東の地ではかつてない戦いが始まろうとしていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


小田氏治さん劇場はまだまだ続きますが、今回は一旦このあたりでお開き。


どうなる?どうなる氏治さん。 それではまた~!^^ノシ


(つづく)




※この文章はブログ主の見解です。




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