2018年4月2日月曜日

【日本史】キャラ絵小話! 有馬晴信さん編(2)

ixaコラム:経験0からのIXA!









関連する前回
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シクレ特・有馬晴信さん、メッチャ便利で感激する!~キャラ絵小話・有馬晴信さん編(1)~


(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『信長の野望』シリーズより、晩年の徳川家康


「機を見てポルトガルに報復せよ!」


☝・・・大御所・徳川家康は「マカオ騒擾」の事件を受け、有馬晴信にポルトガルへの報復を厳命した。


大御所・家康の声は威厳があり、平伏する晴信の全身に重圧となってのしかかる。 晴信はとっさに承諾の返事はしたものの、大汗をかき、平伏したそのまま固まってしまっていた。


それもそのはず、いち地方の領主という身分である以上、大御所の下命に異議を挟むことなどまず考えられない。 ・・・しかし晴信は考える。 簡単に報復せよなどと言ってくれるが、いったいどうやってポルトガルに報復せよというのか?


そう思っているところに、「では、下がれ」と促され、ハッと我に返って会見の間から退室する晴信。 その様子は心ここにあらずといった様子だ。 そんな晴信に家康は重ねて何も語らず、ただただ不動の威圧オーラを放っていたのである。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)




と、ここで、


話は前後してしまいますが、有馬晴信という武将を語るうえで、生い立ちなどといった彼の取り巻いた環境を、皆さんといっしょに振り返ってみたい。







☆『グーグルマップ』より


☝・・・有馬晴信が生まれた有馬家は、肥前の国・島原半島の日野江がその本拠地だ。
(追記)以前、口之津が有馬氏の本拠とお伝えしてしまいましたが、これは誤りでした。経済的な中心地が口之津で、城といった本拠地は日野江ということのようです。m(__)m


有馬家はコーエー社の人気ゲーム・『信長の野望』シリーズで長崎県を代表する勢力として登場することもあるので、わたしを含めて知っている人は多いかと思う。


なお、『のぶやぼ』ゲーム中に登場する有馬家の本拠は日野江ではなく、大村氏の領する「大村城」がその中心地として設定されているなど、事実とは異なっていて、ちょっとした誤解を招いている。 わたしも詳しくは知りませんでしたYo!
(´・ω・`)


それはさておき、戦国時代のメルクマール・織田信長の生きた時代では、現・長崎県の地域は平戸の松浦家、大村の大村家、そして日野江の有馬家の三家が有力な大名としてそれぞれの地を割拠していた。







☆『信長の野望』シリーズより


☝・・・そんな群雄割拠の肥前国で頭一つ分をもたげたのが、日野江を本拠にしていた有馬家だった。 そして、上の画像は有馬晴信の祖父にあたる有馬晴純です。


仙巌(せんがん)という号でも知られる有馬晴純は、軍事、政略共に積極的に攻勢をかけて、この地域における有馬家の名声を大いに高めていた。 しかし、そんな有馬家の隆盛も、晴純が隠居して第一線から退いた永禄年間(1558~)ごろからは徐々にその勢いを失っていく。







☆『戦国ixa』より、龍造寺隆信

「分別(ふんべつ)も久しゅうすればねまる。」


☝・・・そう、その頃の肥前の国は、即断即決、電光石火をモットーにした「肥前の熊」こと龍造寺隆信が、「これからは俺がこの地域をシメるぜえ!」と言わんばかりに活発な活動を開始していたのだ。


今回の主人公・有馬晴信は、祖父の晴純が亡くなるのと入れ替わるように永禄10年(1567)に生まれている。 やがて晴信は、父の病弱、兄の早世、他勢力の圧迫など、諸般の事情によってわずか5歳で家督を継ぐこととなった。


こうして、幼くとも当主となった晴信は、人生の大切な時期である幼少期~青年期を、龍造寺隆信という油断のできない強敵と向かい合うことを強いられることとなる・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


晴信の生い立ちについてはここでいったん置いておいて、ここからは有馬晴信という武将の大切な要素である、キリシタンのことについて触れていきたい。


☆『千万の覇者』より、大友宗麟


☝・・・キリシタン大名といえば、大友宗麟がその代表といった感じだろうか?


本来はキリスト教にそれほど関心の無かった九州の大名たちですが、キリシタンの宣教師とセットで現れる南蛮商人が持ち込む交易品、そこからもたらされる利益に目がくらんでキリスト教を保護していた。 そういった背景のもと、北九州の各地では南蛮港が開かれ、教会をはじめとしたキリシタンの拠点が作られることになる。







☆『戦国サーガ』より、姫化したコスメ・デ・トーレス


☝・・・九州の大名たちをキリシタンへといざなったのは、何も交易品のもたらす金銭的利益ばかりではない。


九州ではコスメ・デ・トーレスを長とした、人間的魅力のあふれる宣教師たちが、文字通り、”骨を埋める覚悟で”熱心に宣教活動を行っていたのだ。


ちなみにトーレスという人物は、ザビエルと共に日本を訪れた宣教師であり、ザビエルが日本を去ったあとその役職を引き継ぎ、イエズス会の日本布教長を務めた重鎮といえる人物だ。 なお、この人物の性格は温和で、愛情にあふれる極めて人格者であったと伝わっている。


そういった人格者の宣教師たちと直に接することで、かたくなな仏教徒/神道信者であった九州の大名たちもキリスト教に関心を持ち、次第に心を許していくこととなる・・・。







そして有馬家とキリシタンの関係はというと、


☆『信長の野望』シリーズより、有馬義貞


☝・・・こちらが有馬晴信の父・義貞。 能力値をご覧になっていただければわかるように、この人物は戦国大名としてはおおよそ不向きな、軍事行動はさっぱりダメといった、和歌や書といった芸道をもっぱら好んだ温和な文化人だった。


そんな温和な領主・有馬義貞も、先ほどの宣教師・トーレスの感化を受けてキリシタンになった武将の一人であった。(洗礼については、別の宣教師が行ったと述べられている。) つまり、有馬家のキリシタン化はこの人物の代からということになる。







☆『千万の覇者』より、有馬晴信


☝・・・このように、有馬晴信が物心ついた前後のころから、彼がキリシタンになる環境は整えられていたという訳だ。 父も母も、そして叔父といった親戚もキリシタンが多かったのだから、自分がやがてキリシタンになるということに違和感を感じるといったことも無かったハズだ。 晴信はやがて10代へと成長したのち、正式に受洗をしてキリシタンとなっている。







☆『戦国ixa』より、大村純忠


☝・・・有馬晴信のキリシタン入信に伴って、彼の結婚式もほぼ同時に行われた。 晴信のお嫁さんとして選ばれたのは、近隣の領主・大村純忠の娘、ドナ・ルシアだと伝わっている。 大村純忠は日本最初のキリシタン大名として知られ、晴信とは伯父・甥の関係だった。


有馬晴信と大村純忠が伯父・甥の関係にあるので、ドナ・ルシアと晴信はいとこ同士ということになる。 現代の日本では避ける傾向にあるいとこ婚ですが、当時の武家は「重縁を結ぶ」という価値観があったために、何の差しさわりも無かった。 むしろ、キリシタン同士の結婚ということでスムーズに事は進んだのだ。







☆『戦国ixa』より、有馬晴信と伊東マンショ


☝・・・こうして受洗・結婚以来の晴信は、自らの名代として「天正遣欧少年使節」を大友宗麟、大村純忠と共同してローマに派遣するなど、その熱心なキリシタン大名ぶりが知られている。 しかしその一方で、一説には、時期によっては領内のキリシタンを弾圧したこともあったとも言われていて、いっとき棄教していたのかどうか、そのあたりは判然としない。 とはいえ、晴信がおおむねキリシタンとして生涯を過ごしたことは間違いないだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


有馬晴信とキリスト教に関する話題はこれくらいにしておいて、話は彼の半生に戻ります。


☆『のぶニャがの野望』より、ありミャー晴信


☝・・・有馬家は晴信が家督を継いだしばらくのち、龍造寺隆信に圧迫されて不本意な臣従を余儀なくされていた。 そんな有馬家に一大転機が訪れる。


ときは天正12年(1584)。 このころ破竹の勢いで南九州を制圧した薩摩の島津四兄弟は、さらに勢力を伸ばすべく肥後北部へとその触手を伸ばした。 その行動は龍造寺隆信を大いに刺激したのである。


すぐさま軍事的緊張が島津・龍造寺間で張り詰める。 そのとき、島津勢は兵数的に圧倒的に不利であった。 そこで状況を打開するために、島津勢は龍造寺家中の不満分子を味方につけるべく水面下で動いた。 いわゆる調略というやつだ。 その相手とは、島原半島の若き領主・有馬晴信であり、そうしたきっかけで「沖田畷の合戦」が勃発することになるのだが・・・。







☆『千万の覇者』より、島津家久と島津豊久


☝・・・今回は「マカオ騒擾」がテーマなので、「沖田畷の戦い」について詳しく述べることはなるべく避けたい。 ただ、島津家久父子が率いる島津軍ばかりが活躍したような印象であるこの戦いは、地味であるものの、有馬晴信も確かに出陣していて、島津と共に死力を尽くして決戦は行われた。







☆オンラインゲーム『War Thunder』より


☝・・・特筆すべきなのは、この戦いに有馬氏の船2艘が参加し、有明海から敵に向かって砲撃を加えた、ということがフロイスの著書から知られている。 つまりは艦砲による援護射撃だ。 どうやらこの船はイエズス会がらみの外国船だと推定されるものの、この時点で大砲を動員できる大名はそうそうなく、このことで有馬氏は名声を轟かせることとなった。


・・・ここでひとつ気づいたことがあります。 それは、有馬氏が外国船を動員していたとなると、要請だとかいった事前の打ち合わせや準備を念入りにしていた結果である、ということだ。 いきなり「ここに行ってこう戦ってくれ」と言われて引き受ける重武装の外国船が、都合良くあるとはふつう考えにくい。


このように、この戦いにはイエズス会の影がチラホラ見え隠れしている。







☆『グーグルマップ』より、沖田畷古戦場跡


☆『千万の覇者』より、龍造寺隆信


☝・・・さらに想像力をたくましくすれば、この戦いで龍造寺隆信が討ち取られたのも、有馬氏の要請を受けた戦艦が突如としてあらわれ、龍造寺軍の布陣・後方の退路を断つように猛烈な艦砲射撃を始めた。 そのために龍造寺軍は動揺し、混乱のさなか無謀な突進行動となって、畷道の周囲にあるぬかるみに嵌って進退窮まり、最終的には島津の鉄砲隊の餌食となって総大将が討ち取られてしまったーーーという結果も筋が通って聞こえてくる。


このように、有馬氏視点からこの戦いを見ると、通説とは違った「沖田畷の戦い」が見えてくる。 そしてそれはとても興味深いところだ。


この戦いで破格の勝利を手にして以降、有馬家は島津家に従うことになる。 龍造寺家を撃破した島津四兄弟は勢い、今度は大友家に攻めかかるのだが・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、豊臣秀吉と黒田官兵衛


☝・・・ときに天正14年(1586)7月。 島津氏の大友攻めは、中央政権である羽柴氏(豊臣氏)の介入を招く結果となった。


このとき、「沖田畷の戦い」で共に修羅場をくぐり抜け、熱い友情を育んだかのように思えた有馬=島津の同盟関係だったが、有馬晴信は割とあっさり島津から離反して、羽柴方に寝返っている。 @@;


秀吉の九州戦役については、「戸次川の戦い」で島津勢は意地を見せたものの、それ以外の戦いでは精彩さを欠き、やがて戦意を喪失した島津軍は全面降伏。 この戦いは1年とたたずに終戦となった。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、「武装商船」の小西行長


☝・・・有馬晴信は豊臣政権下でも活躍した。 晴信は依然と島原半島を領有しながら、こんどは肥後半国(南半分)の領主・小西行長の組下となったのだ。 なお、小西行長も晴信と同じくキリシタン武将として有名だ。


小西行長は豊臣政権下では「舟奉行」を務めている。 そんな小西家の組下に入れられた有馬家は、やはり船関係での活躍が期待されていたに違いない。 やがて晴信は、小西行長の与力として「文禄・慶長の役」(1592-1598)に参戦、おもに朝鮮の地で過ごした。


「文禄・慶長の役」については皆さんご存じ、日本は結果的に朝鮮半島から総撤退・・・つまりは敗北することとなる。 この戦役のネックは海戦で、船による補給線が断たれたことが大きな敗北要因だった。 シビアに言えば、舟奉行の関係者である有馬晴信は、この戦いにおいて期待通りの活躍ができず、勝利に貢献できなかったとも言える・・・。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『千万の覇者』より、徳川家康と石田三成


☝・・・時は流れて慶長5年(1600)9月。 こんどは「関ケ原の合戦」だ。


日本の大名が東西いずれかの陣営に分かれて戦ったこの戦役で、有馬晴信は国元・島原半島にいて西軍の旗を掲げた。 ところが、東軍が勝ったとなるとすぐさま勝ち馬に乗り換え、上司であった小西行長の国元・肥後国を攻めている。 (`・ω・´;)


なお、小西氏は西軍の主力の一つとして関ケ原に出張しており、晴信はやすやすと肥後で戦功を立てることができた。


このように晴信は肥後で戦功を立てたため、当初西軍に味方したことを罪に問われず、めでたく戦国期~豊臣政権~徳川政権へと、乱世の荒波をくぐって泳ぎきり、生き残ることができたのだ。







前置きとしてはとてつもなく長くなってしまいましたが、w、結論を言うと、有馬晴信という武将はキリシタン大名としてイエズス会と何やら太い繋がりを持ち、そのうえで「沖田畷の戦い」のような場合は腹をくくって戦い、「秀吉の九州平定」や「関ケ原の戦い」においてはより強い上級権力に逆らわずに寝返るといった政治的狡猾さ/賢明さを持ちあわせた武将であると言えるだろう。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


お話はここでようやく「マカオ騒擾」へと戻るーーー。








「報復つーゆうても、いったいどげんすればよかとーと!
 まさか、マカオまで殴り込みばかけろと!? せからしかー!」
( ゚Д゚)


☝・・・駿府城にて、大御所・徳川家康と面会したばかりの有馬晴信である。 w


このように、大きな声で叫び出したい晴信であったが、もちろん駿府城内でそのような振る舞いができるハズがない。


そんな晴信は小姓に呼び止められ、近くの別室へと案内された。 そして、その部屋で待ち受けていたのは・・・。







☆『千万の覇者』より、本多正純


☝・・・通された部屋に待ち受けていたのは、家康の側近である本多正純だった。 なお本多正純とは、家康に「友」とまで言わしめた謀臣・本多佐渡守正信の嫡男だ。







☆『戦国ixa』より、南光防天海と以心崇伝


☝・・・余談ですが、このころ将軍職を辞して駿府で大御所政治を行っていた家康には「3本の懐刀」があった。 「黒衣の宰相」と呼ばれた僧の天海と崇伝、そして本多正純の3人だ。


正純は「3本の懐刀」のなかでは若年であったが、父・本多正信ゆずりの頭脳のキレとその忠勤ぶりで、正純はこのころ家康の「側近中の側近」として広く内外でその名を知られていた。







(・ω・)(・ω・)(・ω・)


☆『戦国ixa』より、有馬晴信と本多正純


☝・・・(この人物が本多正純殿か・・・。)


部屋で向かい合う、初対面の有馬晴信と本多正純。 目の前に座ったこの人物からは武の臭いがまるでしない。 そのかわり、墨と硯から成る、文具の臭いを晴信はそこはかと感じていた。


ちなみに正純は永禄8年(1565)の生まれで、晴信とは2歳差のほぼ同年代だ。 彼らの間に主従関係はないものの、とはいえ、片や政権の中枢に位置する者であり、もう片方は一地方の領主と、彼らの間には厳然とした分限/身分の差が広がっている。


予想に反して、本多正純は身分を笠に着ることなく丁寧に話しはじめた。


正純
「有馬殿。 このたび大御所様のご下命ですが、実際どうしたらいいのか分からないでしょう」 ・・・先ほど家康の前でかいた大汗をぬぐいながら、問いに肯く晴信。

正純
「実は、我々はいくつかの筋から、今回の当事者、マカオ総監・アンドレ=ペッソアが近いうち長崎に来航する、その情報を掴んでいるのですが・・・」

「!?」 いぶかしがる晴信。 なぜ本多殿はそれを知っているのか。

正純
「彼らの来航の主な目的は、生糸の交易。 要は商売のためにやって来るのです」

「はぁ・・・」 なおも状況がつかめない晴信。

正純
「・・・そこで我々は、何だかんだと用件を作って彼らの注意をひきつけ、動きを封じます。 その間に有馬殿は兵を使い、機を見てペッソアめを捕縛するのです」

「なんと!」

正純
「よいですかな、有馬殿。 これはあくまでも有馬殿による敵討ち。 徳川政権が関与したと相手方に知られては、いろいろ面倒なことになるのです」


・・・正純は終始丁寧な話し方をしていたが、この部分だけが”念が入った”口調となり、ここが会話の核心であることを晴信に伝えていた。


「・・・!」


なんということか。 驚いたことに、すでにポルトガルへの報復の筋書きが用意されていたのだ。 どうやらこの一件には、自分の見えぬところで何か大きな流れが渦巻いている。 いつのまにか我が身は、目隠しをされたまま流れの速い海に放り込まれてしまったかのようだ。


ーーーかくなる上はままよ、行く着く末がどこになるのかは分からないけれども、向こう岸まで泳ぎ切ってやろうじゃないの! 火の国を二つに隔てる有明の海を。


・・・いさぎよく、腹を据えた有馬晴信なのであった。







☆『戦国姫譚Muramasa』より、姫化した有馬晴信


☝・・・と、いうことで、ストーリー的に前回からはほどんど進んでいませんが、orz、今回はこの辺りで次回につづくー!
(・ω・)ノシ


※この文章はブログ主の見解です。




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